music diary


2003年10月分
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ロジータ・レナルド (2003/10/31)
2003年10月31日 金曜日 曇り

  ハロウィンなので、もしお菓子を貰いにやって来た子どもたちには、お菓子をあげましょう。

   ところでLP漁りは家計が火の車になっても止められない止まらないもので、一般的に殆ど知られていないけど、本当に凄い仕事を残している演奏家に出会う場合があります。

 アメリカのIPAという往年の素晴らしいピアニストを紹介し続けてきた素晴らしいレーベルがあるのですが、そこからロジータ・レナルドというピアニストの、48年、カーネギーホールでのライヴを録音したレコードを購入したんです。

 ロジータ・レナルドといっても知らない人のほうが多いかも知れません。
 でも絶対にこのまま忘却されていい人ではないです。

 この女流のピアニストの力量はとてつもないです!!!
 何が凄いか? 
 一言でいってしまえば、テクニックをテクニックと感じさせない所が凄いんです!!! 
 
 当たり前のことを当たり前のこととしてやっている。何処にも作為的な所が無いのに、音楽のイマジネーションは泉のように溢れている・・・・。 これは当たり前のように見えますが、実はとてつもないことなんです。嘘だと思うんだったら、あそこまで完璧なレガートを一度でいいから弾いてみればいい。まず不可能です。ピアノを弾く人だったら、この演奏がいかに凄いことをさらりとやっているのか気が付く。そしてテクニックと音楽とは決して切り離して考えられないということを思い知らされてしまう筈です。またそのことに気付かないようでは駄目です。巷でいうテクニックがあるというのは、機械のように正確に弾くという意味に使われています。でもそんな機械のように弾けたからといっても意味がない。

 絶対音感をもつと自称しているピアニスト清水 和音氏によると、フルトヴェングラーの音程は不正確なのだそうです。そもそもそんなことをいっている時点で私に言わせれば自分で音痴だと白状しているようなものです。平均率で合わせていればそれで正しい音程だと勘違いしているようですが、それは違うんです。音程の正確さというものがいかなるものか、演奏家のくせにまったく理解していない。弦楽器にしろ管楽器にしろ多かれ少なかれ、音程を自分で創っているという事さえ判らない。技術すなわちテクニックとは生きたものであり、それはその人の人生の刻印があるものです。だからテクニックにおけるメカニカルな側面は、音楽表現そのものと表裏一体の関係にあります。ペダルをどう踏むのか、指使いやタッチ一つとっても、それらの技術は常に音楽と結びついています。ところが多くの凡庸なピアニストはメカニックとテクニックの違いを理解しないから、本当の意味でのテクニックが無いんです。

一般の愛好家もそうですが何よりも音楽を勉強している人に聴いてもらいたい演奏ですね。
音楽コンクールなんかで一等を取ったからテクニックがあると勘違いする馬鹿な聴衆には馬の耳に念仏かも知れないけど・・・・。

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ブルガリアン・ヴォイス (2003/10/22)


ブルガリアン・ポリフォニー(1)~JVCワールド・サウンズブルガリアン・ポリフォニー(1)~JVCワールド・サウンズ
(2000/07/05)
民族音楽、フィリップ・クーテフ・ブルガリア国立合唱団 他

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ブルガリアン・ポリフォニー(2)~JVCワールド・サウンズブルガリアン・ポリフォニー(2)~JVCワールド・サウンズ
(2000/07/05)
民族音楽、フィリップ・クーテフ・ブルガリア国立合唱団 他

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2003年 10月 22日 水曜日  雨  


ブルガリアン・ヴォイスを聴いた事があるでしょうか?
もし聴いたことが無ければ、何はともあれすぐに聴くべきです、人生は短い・・・。

ビクターからフィリップ・クーテフ、ブルガリア国立合唱団のCDがでているのですが、
実はこの演奏、LPでも出ているんです。
(少なくととvol1,2に関しては確認済みです。なぜなら愛聴しているから。)

両方出ているという事は、CDと比較してみるのも一興です。

詳しい解説は芸能山城組の組頭である山城 祥二 氏こと大橋 力氏のライナーノートを
読んでもらうとしても、これはなかなか再生難しいです。

ブルガリアン・ヴォイスの様な地声を使った合唱は、
ブルガリアに限定されるものではなく、グルジア(グルジアの合唱がまた素晴らしい!!!!)
においても見られるように実は、あの地域に共有する文化なんです。

ヨーロッパというと我々は一枚岩であるかのように捉えるけれども、
実は音楽に限らず音楽は非常に多層的な構造をもっているます。
実は音楽は一枚岩ではなく、様々な幻想のぶつかり合いの中で生まれていくものです。

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フランソワの日本公演について (2003/10/19)








2003年10月19日 日曜日 晴れ


フランソワの日本公演について

フランクの深い祈りと探求、フォーレの詩、ドビュッシーの光・・・・
もはや聴衆も何もない。そこにあるのは存在そのものの輝きとの対話・・・・。
もはやフランソワが弾くのではない、ミューズの神がサンソン・フランソワと
いう人間の身体と魂に憑依し、音楽の秘密を語り出すのだ!!!
そして我々は音楽が誕生するその瞬間、命の生成と消滅、存在そのものの呟きを目撃する・・・。
サンソン・フランソワという人は、命をすり減らしながら、
彼は自らの運命そのものを生きようとした。
それがどれほど辛いことだろうか!!!
天才とはこれほど苦痛と歓喜に満ちた生を強いられるのか?
今、こんなドビュッシーを聴くことは出来ないし、今後もおそらくはないだろう・・・・。
おそらく未来永劫にあり得ない、と思う・・・・・。

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カルロス・ガルデル (2003/10/18)
昨日カルロス・ガルデル/大いなる遺産という新星堂でだしているCDを購入しました。

この当時のブエノスアイレスという都市の素晴らしさ、そしてその風土はタンゴという素晴らしい音楽を生み出したということ・・・・。

淡々と歌っているけど、その中にある深い哀しみや、やるせなさ、メランコリー・・・・タンゴという音楽が持つ深い魂のすべてがここにある・・・。思えばタンゴは亡命者の音楽であり、故郷を喪失したものの音楽であった。
そしてその思いはアルゼンチンの中で異邦人であり続けたピアソラに継がれている・・・・。

白痴化され家畜化したこの日本で、果たして本当の意味での都市が存在し得るのだろうか?
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ゴロヴァーノフ (2003/10/04)
2003年 10月 4日 土曜日 晴れ


 さて、まずはゴロヴァーノフから語ることにします。

 ワーグナーといい、モツレクといい、参ってしまいました。特にモツレクは聴いていて愕然としてしまいました・・・・・。ラクリモザの最期を死に絶えるような、虚無の中に引きずり込まれるようなピアニッシモで演奏しているんです。ぞっとしました、正直にいって恐ろしかった!!!
 しかし何故にこのような過剰な演奏をしなければならなかったのか?この過剰さはやはりただ事ではない。私はゴロヴァーノフに関して巷で言われているような単なるゲテモノ指揮者じゃないと演奏を聴いて直感し確信しました。やりたい放題だと人は言うかも知れないけど、彼が何故そうしなければならなかったのか?そこにはそうしなければならない必然性があってギリギリなまでの結論としてああいう演奏をしている筈です。だからその必然性を考察しない限り、ゴロヴァーノフの演奏を支えている精神的な土壌を見落してしまうのではないかと思います。
 何故ロシアのオケはあそこまで過剰なのか?強奏される金管、地を這うような深い低音、このような響きを嗜好するのには何かしら根深い理由があるのではないのか?私にはそう思えてなりません。ゴロヴァーノフにしてもムラヴィンスキーにしても、このようなドストエフスキーやトルストイを生んだ文化的背景に立脚していることを実感させられる。バクーニン、クロポトキン、レーニン、トロツキー、いずれもロシア人であるということは絶対に偶然ではあり得ない。あのゴロヴァーノフの過剰さは帝政ロシア期の精神的土壌に立脚した演奏であって、決してそれらは断じて奇をてらったものではないというのが私の考えです。
 日本の愛好家の中にはロシアのオケの過剰さを小馬鹿にした発言をする馬鹿な聴き手がいますが、彼らはこの過剰さは何処から来るのか一度でも考えたことがあるのでしょうか?こういう輩が日本をだめにするんだ!!!
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