music diary


2004年09月分
スポンサーサイト (--/--/--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリー:スポンサー広告


この記事のURL: http://classicalmusic.blog58.fc2.com/?overture" target="_new










なあママさんのコンサートに行ってきました。(コルンゴルドについて) (2004/09/19)
2004年 9月 19日 日曜日 晴れ

なあママさんのコンサートに行ってきました。
喘息がとても心配だったのですが、それでも無事、本番を乗り切れた事で一安心致しました。
でも何よりも、一刻も早く、回復する事を願っております。

ところで早崎さんのコルンゴルドについての評伝を読ませて頂きましたが、本当に運が悪い人ですね・・・・・。

 コルンゴルドは調性音楽の持つ可能性を極限にまで突き詰めようとしていたという点において、実は20世紀前半という時代が求めていた音楽を具現していたのではないか?シェーンベルグの音楽も、無調だというけれど、それは西洋音楽の和声を極限にまで突き詰めるという意味において、実はより普遍的な調性を追求しようとしていた筈です。コルンゴルドとシェーンベルグは正反対のように捉えられがちですが、実は違った方向からトンネルを掘っていたのではないかと思う事があります。
どちらも20世紀の音楽のあり方を象徴した作曲家だった。
では両者の何が違うのか?

 音楽を構成する素材を脱神話化したという点において、シェーンベルグが切り開いた道は非常に革命的だった。しかし、コルンゴルドには音楽のアウラに対する信頼を生涯持ち続けていた。この点において両者は異なった道を歩んでいる。アウラを自在に操る才能に恵まれたコルンゴルドという才能を、時代が、文化産業が求めた。そしてその要請に応じて、彼は珠玉の音楽を提供していた。しかし第2次世界大戦後、音楽芸術は音楽の徹底したアウラの解体・・・というより数量化を志向した。その背景には、ナチズムとナチズムに象徴されるものが巧妙に利用した神話的なアウラを、数量化によって払拭し忘却したいという願望があったのではないのか?ブーレーズやノーノが、マルクス主義者だったという事は偶然ではないし、ウェーベルンがナチスに魅了された事は偶然ではないと思う。その時流から取り残された生きた化石であるコルンゴルドは、旧時代の廃虚を目撃したものにとって旧時代の唾棄すべき負の遺産に映ったのではなかったのか? 少なくとも、ビーダーマイヤー氏の忌まわしい亡霊に映ったのではなかったのか?そうなると「ワーナーのために作曲している」とかいって、文化産業の奴隷というポジションを与える事で黙殺するのが手っ取り早かった。

 もちろん、そんなことで切り捨てても、我々はナチズムの亡霊に今でも苦しめ続けているわけだし、いまだにセリー音楽によって作曲された大衆音楽を聴いた事が無いというのは非常に興味深い事ではあります。
スポンサーサイト
カテゴリー:classical / トラックバック:0 / コメント:0


この記事のURL: http://classicalmusic.blog58.fc2.com/blog-entry-29.html










ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサン (2004/09/16)

Concerti Grossi Op 6 Concerti Grossi Op 6
George Frideric Handel、 他 (2003/02/10)
Harmonia Mundi
この商品の詳細を見る





2004年 9月 16日 木曜日 晴れ

仕事の帰りに、横浜のHMVに立ち寄りました。
そこでウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサンによる、ヘンデルの合奏協奏曲のCDを購入しました。
昔のスタイルがどうこうというのではなく、とても優雅でセンスが良いんです!!!
ヘンデルの音楽の持つ力強さや生命力が、とても自然にのびのびと発揮された演奏です。何よりも響きがとても美しい!!!
フレスコ画のような透明な色彩です。響きに対する感覚の鋭い古楽の演奏家の中でも、ずば抜けたアンサンブルです。
いたずらに奇を衒った装飾音や奏法で飾り立てたりしない所が、流石です。

ホーレンシュタインが古楽器を使用してバッハのブランデンブルグ協奏曲を録音してから随分と経過しています。古楽のあり方もその間に様変わりしました。昔の楽器や奏法を再現している筈なのに、そこから出てくる音楽は今を生きている現代人の音楽であるというのは実に逆説的であります。その逆説はちょうど、ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の壁画が長年の煤や埃を洗浄し終えたとき、鮮やかな色彩を目の当たりにして人々が大きく戸惑ったのとよく似ています。古楽とはあの大きな戸惑いから出発しているんです。
そしてその戸惑いに慣れて社会に受容されるということは、その社会においての立場が形成されたという事だと思うんですね。
言換えれば、古楽だと現代人が捉えている演奏が、現代という時代の意味生成の中で機能しているということです。それがどうして、昔の音楽を再現したものであるといえるのだろうか?音楽はそれが奏でられる存在である以上、時代や地域から切り離した地点には存在しないのではないか?古楽復興はただ単に学究的な好奇心によってなされたものではない。古楽復興は徹底した原典主義を主張する事で、かえって原典主義に対する痛烈なアイロニーを含んでいた。

その戸惑いに多くの人々が慣れてしまうということは、それがアイロニーに留まるがゆえに、その奏法が人々に対して衝撃を与えず、毒抜きされ、殺菌された音楽になってしまう宿命を背負っている。では、そういう状況の中からアイロニーから抜け出した音楽を模索する世代も出てくる。クリスティにしても、マンゼ にしてもゲーベルにしても、そういう宿命の中から新しい音楽を創造しようとしています。
カテゴリー:classical / トラックバック:0 / コメント:0


この記事のURL: http://classicalmusic.blog58.fc2.com/blog-entry-28.html










music diary
© ざらすとろ 2004. (http://classicalmusic.blog58.fc2.com/)

/
This BlogTemplate's origin was written by Tamico.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。